スヴァールバルからの便り

(『クサヨミ』に、さくらメダル賞 http://d.hatena.ne.jp/fujitam3/20150529 をいただいたので、ちょっと後日譚を書いてみました)

クサヨミ書簡  スヴァールバルからの便り   藤田雅矢


 ポストをのぞくと、国際郵便が届いていた。赤と青の二色に縁取りされたエアメールの封筒だ。手に取ってみると、オーロラが描かれた十二クローネの大きな切手が貼ってあった。どこから来たんだろうと消印を見ると、そこにはSvalbardとアルファベットが読めた。
「スバルバード?」
 調べてみると、それはスバルバードではなく、ノルウェースヴァールバル諸島からの郵便であることがわかった。地球儀のてっぺん近く、グリーンランドの東、北緯80度近くに位置する北極圏の島々だ。
 そんなところから届いた封筒には、英語でJAPANと目立つように国名が書かれているほかは、日本語で宛名が書かれていた。
 方喰(かたばみ)剣志郎 様――
 見覚えのある丸っこい字。そう、秋野希林さんの字だ。
 中学の雑草クラブで一年先輩だった希林さん。その希林さんが、去年の秋からロンドンのキュー植物園にあるプラントドリトル研究所に留学して、早いもので九ヶ月が経とうとしていた。もう六月だ。
 プラントドリトル研究所では、希林さんのようなクサヨミを世界中から呼び集めて、植物とのコミュニケーションを研究しているということだった。クサヨミというのは、植物に触れることで植物の記憶を読み取ることのできる不思議な能力を持つ人たちのことだ。ただ、その能力は大人になるにつれて消えてしまう。希林さんは、ずば抜けた能力を持つクサヨミだった。だからこそ、留学の誘いがあったのだと思う。
 希林さんが英国に行ってしまってからも、キュー植物園での事件や、希林さんと入れ替わりにやって来た転校生のことなど、これまでも電子メールでやりとりは続けていた。でも、今回はメールではなく、どうしても郵便でないといけなかったようだ。封を開けてみて、そのことがよくわかった。
 中には希林さんからの便せんにはさまれて、小さく白いヒナゲシのような押し花が入っていたからだ。便せんを開くと、凍えるような冷たい風を感じた。
 思わず、剣志郎は大きなくしゃみをした。そして、手紙を読みはじめた。


 方喰剣志郎さま、お元気ですか。
 わたしはいま、北極圏にあるスヴァールバル諸島スピッツベルゲン島に来ています。ロングイェールビーンという、島で一番大きな町にいます。といっても、人口は2000人ほど。いまの時期は、夜中に目が覚めても窓の外はずっと明るくて、カーテンの向こう、北の空にはぼんやりと太陽が浮かんで見えます。初めて体験する白夜に、なんだかわくわくしています。逆に冬になると、雪に閉ざされて太陽は昇ることがなく、オーロラが見える極夜の世界になるそうです。
 どうしてこんなところにいるかというと、ここには大きな災害に備えて、永久凍土の低温を利用して、長期間種子を保存することができるスヴァールバル世界種子貯蔵庫があるからです。
 キュー植物園にも、「ミレニアム・シードバンク・プロジェクト」という、多くの種類の植物を保存しておく種子銀行のプロジェクトがあります。その大事な種子を絶やすことがないように、バックアップとして園が保存する植物の種子をこの貯蔵庫に納めにきたのです。
 スヴァールバル世界種子貯蔵庫のことは、以前にニュースで見たことがありました。キュー植物園に来たときから、スヴァールバルに行く機会もあるとは聞いていたので、是非行ってみたいと希望していました。すると、なんと今回シードバンク担当のブルーベル教授が種子を運ぶ渡航に、同行させてもらえることになったのです。
 持って行くのは、キャベツやニンジンなどのたくさんの種類の野菜や、セージのようなハーブ類など有用植物と呼ばれるもの、そして樹木の種子も……稲や麦などの穀物は既に別のシードバンクから納められているので、それ以外の植物の種子をキュー植物園で用意しました。
 アルミパウチにそれぞれ植物の種子を500粒パックして、それらを箱に納めて封をし、種子目録一覧とともに長期保存するのです。わたしも、キュー植物園の種子庫に眠る種子を、ひとつひとつ確認しながら小分けしていく作業を手伝いました。
 世界種子貯蔵庫では、永久凍土のトンネルにこのような種子を450万種類も保存できるそうです。だから、種子版ノアの箱舟とも呼ばれています。その箱舟に乗せる種子を、スヴァールバルへと運んできたのです。
 それともう一つ、この手紙に同封した押し花を見て下さい。実は、この花を日本へ送るために、この封筒を出しました。
 この白い花は、スヴァールバル諸島の固有種、スヴァールバル・ポピーといいます。冬は雪に埋もれた世界となるこの島で、夏のほんのひとときだけ、岩陰に小さな花を可憐に咲かせます。
 まず試してもらいたいのは、この押し花を読むことです。
 実は最近、キュー植物園にある数多くの標本を読んだ中から、過去のクサヨミたちが標本に記録を残した例が見つかりました。触れた草に、自分の記録を残しているのです。本当にそんなことができるのかどうか、この花で試してみることにしました。成功したかどうか、続きはこの花を読んでみて下さい。
  ロングイェールビーンにて  秋野 希林


 便せんには、そう書かれていた。
「続きはこの花を読んでって……そんなことが」
 クサヨミは、たとえば大きな木の幹に触れることで、その木が経験してきた何百年かの記憶のかけらを読んで感じることができる。剣志郎も、少しは木を読むことができた。でも、それはその木が感じた記憶だ。たとえば、何十年も前の山火事を、木は年輪の中に憶えている。木に触れて読むことで、そのときの様子を垣間見ることはできる。
 しかし、もし手紙の代わりにするというなら、クサヨミは自分の思ったこと感じたことを、その植物に「書き」こまなくてはならない。
 剣志郎は半信半疑で、これまで植物標本を読んできたときと同じように、便せんにはさまれていたスヴァールバル・ポピーの押し花に、そっと人差し指の先をあてた。そして、静かに目を閉じた。
 次の瞬間――
 凍えるような冷気が、指の先から吹き上げてくるのを感じた。さっき、便せんを開いたときに感じた冷気と同じだ。指先がすぐに冷えて感覚が無くなってくる。それどころか、身体が芯から冷えそうなほどだった。それもそのはず、この夏の時期でもロングイェールビーンの最高気温が5℃を超えることは珍しいのだから。
 閉じた目の前に浮かぶのは、ツンドラの黒い大地。
 遠くには、雪が溶け残ってまだらに見える。植物の緑は乏しい。それでも、地面の一角には白い綿穂がたくさん伸びて、この短い夏の間に大量の綿毛を飛ばしている。ところどころ、丸いクッションのように見えるのは、苔が生えているのだろう。
 すると、その苔の間にぽつんと小さなケシの白い花が見えた。よく見ると、ぽつりぽつりと花が見つかる。
「あれが、スヴァールバル・ポピーか……」
 太陽は空の低い位置にあり、穏やかな光なのに、それがまぶしい。射した陽の光が、スヴァールバル・ポピーの影を長く伸ばす。風は冷たいけれど、陽の光が暖かさをくれる。
 ――いまのうちに、花を咲かせておくんだ。
 そんなふうに感じられた。そう、これはスヴァールバル・ポピーが感じている世界。
 だが、これはこの花の記憶であって、まだ希林さんが残した記憶ではない。もう少し、指先に意識を集中する。
 すると、遠くに飛行機の音が聞こえた。剣志郎は空を見上げた。ロングイェールビーンの空港へ着陸する機体が、高度を下げてきたところだろう。
 どこからか、機内のアナウンスが流れてきた。次第にはっきりと聞こえてくる。
「まもなく、当機はスヴァールバル空港へと到着いたします」
 その機内へと続く扉。いや扉というか、扉のように感じられた何かを抜けると、そこはもう機内だった。
 窓から、スピッツベルゲン島が見えた。
 それが見えるということは、これは希林さんが残した記憶に違いない。スヴァールバル・ポピーが、飛行機の窓から外を眺めることはない。剣志郎は、そう理解した。
 つまり、希林さんの試みは成功したらしい。ちゃんと記録されている。剣志郎は、そのまま機内にとどまるように、押し花に凍える指先を触れ続けた。
 機内を見回す。隣の席に、ベロニカ・ブルーベル教授が座っているのがわかった。
 小柄で飛行機の座席に埋もれるようにして、持ってきたダウンジャケットを足もとにかけている。赤い毛糸の帽子をぎゅっと手に握って目をつぶっている様子は、もう退官も近いお歳だというのに、どこか子どものようにも見える。
 けれども、彼女はキャベツの系統進化の専門家だ。ひとたびキャベツのこととなると、どこからその力が湧いてくるのか、世界中どこへでも赴き、現物をつぶさに観察して、その種子をキュー植物園へと持ち帰る。キャベツの原種である非結球性のケールから、結球キャベツ、ブロッコリー、カリフラワー、コールラビ……英国のジャージー島には、結球しないケールの仲間で、長く伸びた硬い茎を乾燥させて杖にする「杖キャベツ」という珍しいキャベツもある。
 そんな種まで含めて、ブルーベル教授が収集したキャベツの仲間は約二千種。今回、キュー植物園のジーンバンクに納められている種子を、各500粒世界種子貯蔵庫へと納める。ここに種子が残されていれば、たとえ大地震小惑星の衝突のような天災、あるいは取り返しのつかない核戦争が万一起こったとしても、生き残った人類はこの種子を取り出して、再びキャベツやブロッコリーを育てることができる。
 また、窓の外を眺める。大地がより近づいてきた。
 雪が溶けたところは、黒い大地がむき出しになっている。その中に、はっきりと滑走路が伸びているのが見えた。管制塔のそばにある黒く四角い建物は、ロングイェールビーンの空港ビルだ。
 機体に少し揺れを感じ、シートベルト着用のサインが鳴った。
「ブルーベル教授。もう、到着しますよ」
 希林さんが声をかけても、ブルーベル教授は目をつぶったまま答えない。もしかすると、本当に眠っているのかも知れない。
 そんなふうに感じている自分に気がついて、剣志郎は驚いた。
 ここまでスヴァールバル・ポピーを読んできて、希林さんの視点そのままで感じているのがわかる。これが、触れた草に記録を残すということなのか。しかも、希林さんは英語で話していた。そして、それを剣志郎は直接理解することができた。どうやら、感じたまま、見たままを、記録できるようだ。
 ふっと、場面が切り替わった。すると、もう地上に降りていた。窓からスヴァールバルの街の風景が見え、バスの中だとわかる。
「希林さん、もう少しよ」
 ゆっくりとした調子で、今度はブルーベル教授が希林さんに声をかける。
 スヴァールバル空港を発って十分ほど走ったところだ。バスは、ロングイェールビーンの町へと入り、やがて赤や黄色や緑のカラフルな三角屋根の住宅が見えてくる。二階建てのコンテナのような建物も並ぶ。建物の周りには砂色の地面が見えるが、やはり町にも植物の緑はない。あるのは、建物に塗られた塗料の緑だ。
スヴァールバル諸島で、このスピッツベルゲン島だけが有人島なの。でも、一年の大半が氷に覆われているから、ここでは植物もあまり生えないわね。さっき見た白いスヴァールバル・ポピーとワタスゲ、あとは苔くらいかしら」
 綿毛を飛ばしていたのは、ワタスゲだと教えてもらった。
「そんな植物の生えないところに、何百万種類もの植物の種子が眠っているなんて、なんだか不思議な感じがします」
「そうね……でも、そんなところだからこそ、種子を保存できるのよ。世界種子貯蔵庫は、さっきの空港を見下ろす丘の上に、永久凍土を120メートルも深く掘って造られているから」
 そのあと、これまでロングイェールビーンを何度か訪れたことのあるブルーベル教授が、バスの中から街を案内してくれた。
「ほら、向こうに高く尖った塔が見えるのは、ロングイェールビーンの教会。そして、その向こうに見える茶色っぽい大きな建物が、スヴァールバル・ミュージアム。どちらも世界最北にある教会と博物館」
「世界最北」
「そうよ、大学も、病院も、銀行も、映画館も、みんな世界最北」
 そういって、ブルーベル教授は笑った。
「博物館には、白クマなど極北の自然環境の展示があるわ。滞在中に、一度行ってみましょうか。地球温暖化で、ここの環境も大きく変化したことがよくわかる。この100年の間に、島の気温は6℃も上昇してる。その結果、白クマの生存も脅かされている」
「100年で6℃」
「そう、この30年に限れば、4℃も上昇しているんだから」
 話しているうちに、バスがゆっくりと停車した。
「あら、もう着いた。ここが私たちが滞在する研究者用の滞在施設。冬にはオーロラを見にくる観光客もいるけれど、いまの時期は研究者ばっかりよ」
「そうなんですか」
「最北の町は、オゾン層破壊など、環境分野をはじめとした極地研究のメッカでもあるの。私たちのシードバンクも含めてね。スヴァールバル・リサーチパークには、数多くの研究施設があるから」
 バスから降り立つと、防寒着を着た多くの人たちが、ブルーベル教授と希林さんを出迎えてくれた。次々と、握手を求めてくる。
「ようこそ、ロングイェールビーンへ」
 研究者というのは、年齢や人種が変われど、どこか共通した雰囲気がある。知りたいという好奇心に満ちたまなざし。逆にいえば、そのことしか見えていないところがあるのだと思う。

          *

 翌朝――といっても、太陽は沈まないので、時計を見てわかるだけだ。
 ジーンバンクのスタッフが、クルーザーで迎えに来てくれた。納入する種子が入ったコンテナを積み込み、いよいよ種子貯蔵庫へと向かう。
 冬はもちろん、スノーモービルだそうだ。クルーザーは昨日来た空港への道をとって返し、途中で「スヴァールバル世界種子貯蔵庫」の案内板がある細い道へと曲がる。道は丘を登り、やがて種子貯蔵庫の入口へと到着した。ここは、海抜130m。
 丘に突き出た四角い建造物。
 もっとも、これは入口なだけで、施設本体はここから岩盤の中へと120m掘り進めて、永久凍土の中に地下貯蔵庫は造られている。地下貯蔵庫は、冷却器によって-20℃近くに設定されているが、万一電源を失ったとしても、周りの永久凍土のおかげで-4℃に保つことができると説明を受けた。
 おかげで、たとえ核戦争や小惑星の衝突が起こったとしても、中にある450万種22億粒の種子は守られて無事だ。
 その後、生き残った人類がここまでたどり着くことができたら、貯蔵庫にしまい込まれたのコンテナを開けて、中から種子を取り出し、人類は再びキャベツやブロッコリーを育てることができる。
 あるいは、もし人類が滅んでしまったときには、いつの日か異星人が宇宙からやってきて、この種子貯蔵庫を見つけ、地球の植物の種子を持ち出すかも知れない。そして、持ち出されたキャベツやブロッコリーの種子は、太陽系以外の惑星で発芽し、育てられることになるだろう。光のスペクトルが異なる太陽の下、惑星の重力や大気の構成も違う環境で、キャベツやブロッコリーは育つのだろうか。その惑星に適応して、広がっていくのだろうか。
 それがかなうなら、植物たちは人間を使って、この地球から飛び出すチャンスを狙っていたことになる。スヴァールバル世界種子貯蔵庫を造らせて、大いなる種子の寿命を得ることで、植物は生き延び、そして宇宙にまで広がる可能性を得た。
 想像をふくらませ、やはり植物が人間を動かしている、と希林さんは感じた。
「さあ、行きましょう」
 そんなことを思いながら、希林さんはブルーベル教授とともに、ツンドラの大地へと降り立った。
 スタッフが、地下貯蔵庫へとつながる扉を開門する。ここには常勤のスタッフはおらず、こうして種子を出し入れするときのみ開門される。
「どうぞ、お進み下さい」
 通路を進んで行くと、足もとから冷気が上ってくるのがわかる。そして、目の前に巨大な種子のモニュメントが現れた。彫金でできた巨大な野生稲の種子。籾に続いて伸びる長い芒、全長が9mもあるモニュメントだ。
「このモニュメントは、日本人のタナベさんという彫刻家が作ったものですよ」
 希林さんは、そばを通るときに、そっとモニュメントに触れてみた。もちろん、金属の塊からは、クサヨミになにか読めるはずも無い。しかし、そこで希林さんはプラントドリトル研究所で、キャベツの種子を封入しているときのことを思い出した。
 二千種ものキャベツの仲間、その種子を500粒を計粒版で計りとって、遺伝資源番号のシールが貼られたアルミパウチへと入れていく。指先に触れる小さなまん丸の茶色い種子。これが芽を出して、葉っぱが巻いてキャベツになるんだ。あるいは、大きな蕾のブロッコリーになるんだ。
 その種子封入の際に、ちらりと見えた場面があった。いつの記憶かわからない。水を吸った種子から、根っこが一本伸びていく。根から細い根毛がたくさん伸び始める。これがこの種子の記憶であることは間違いない。
 根が枝分かれし、よりしっかりと伸びていく。やがて、種子が持ち上がると、種皮が脱げて中に折りたたまれた双葉が広がる。カイワレ大根のようだ。大根もキャベツもブロッコリーも、大きさは違うものの発芽すればこのようなカイワレとなる。
 その発芽した双葉の数を、誰かが数えている。
 思い当たるのは、発芽試験だ。状態の悪い種子は入れないよう、納入前に発芽率を確認することになっている。しかし、発芽試験された種子はアルミパウチに封入されることはない。眠りにつく種子たちは、そんな発芽する夢を見ているのだろうか。
「行きますよ」
 スタッフの案内で、種子を入れたコンテナを積んだカートとともに、円筒形の通路を進んで行く。蛍光灯に照らし出された中に、息が白い。
 突き当たりにある貯蔵庫の扉には、霜が張りついていた。この奥は-20℃の世界。扉を開けると、天井の高いがらんとした貯蔵庫の空洞に、これまでに運び込まれたコンテナが整然と積み上げられている。
 キュー植物園から運んできたコンテナも、その続きに置かれていく。ブルーベル教授がスタッフと確認して回る。
 そして、種子たちは眠る。万一のことを考えて。発芽率を保つために、今後は20年毎に新しい種子と入れ替えるという。
 コンテナの納入が終わると、再び種子貯蔵庫は閉じられる。希林さんは、そんな種子たちが眠る場所を目に焼きつけて、円筒状の通路をとって返した。
「希林さん、どうだった。何か見えた?」
 種子貯蔵庫から出てきたところで、ブルーベル教授がそう尋ねてきた。
「何かって?」
「種子たちが、何か言ってたかなと思って。クサヨミのあなたならわかる」
「そういえば、この種子を封入していたときに、種子が発芽してその双葉を誰かが数えているのが見えました。おかしなことかも知れないけれど……」
 希林さんがそう答えると、ブルーベル教授はうれしそうにこう話した。
「これは、話したかしら。私も、昔、クサヨミだったのよ」
 初めて会ったときに、教授もクサヨミだったと聞いた憶えがある。
「たぶん、それは発芽試験の様子だと思うわ」
 希林さんが思ったとおりだ。
「発芽試験って、納めた種子は発芽してないですけど」
「それは、きっとキャベツの種子が、希林さんに見せてくれたもの」
「あたしに?」
「そうよ。私がクサヨミだったとき、一度だけ不思議なことが見えたの。子どもの頃住んでいた家の畑の真ん中に、大きな松の木があってね。その木に触れたとき、大きな音とともに木が倒れる姿が見えたの。空が真っ黒だった。恐かった」
「昔、大風でも吹いたんですか」
「いえ、祖父や祖母にも聞いたけれど、これまであの木が倒れるようなことはなかったっていう話だった。それでも、おかしいなと思っていたら、ある日空が真っ暗になって雲が渦巻きはじめたときに、そうか!と私は気づいた。そして、家族とともに車に乗って、真っ黒な雲から逃げだしたの」
「竜巻ですか?」
「そのとおり。結局その木は倒れて、家も屋根が飛んで大きな被害に遭ったけれど、家族はみんな無事だった」
 ブルーベル教授は、昔を思い出すように、大きくうなずきながら話した。
「私はあの木に助けられたのだと信じてる。だから、植物の研究者への道を進んだのかも知れない。あのとき、私は木から昔のことでは無くて、未来の記憶を読むことができたと思ってる。あのときだけだけどね」
 やはり、植物が人間を動かしている、と希林さんはまた感じた。
「ということは……あたしもキャベツの種子の未来を見たってことかしら」
「そうじゃないかしら」
 そのあと、ずっと未来の記憶のことを考えていた。
 あの種子を発芽試験することがあるとすれば、それは種子を新しいものと入れ替える20年後になる。逆に考えれば、そのときまで、種子は大丈夫ということ。つまり、ふつうに発芽試験が行われていたから、20年後もたぶん世界は大きな災害や戦争に遭遇していない。地球の温暖化、戦争、大地震、心配なことはいろいろあるけれど、とりあえず20年後までは大丈夫なんだ。そう思うと、ふっと肩の力が抜けた。そして、そのときまで、自分になにができるだろうと希林さんは思った。
 種子貯蔵庫の入口を出ると、外は快晴だった。中は-20℃だったので、いまの気温が暖かく感じられた。ツンドラの大地に、スヴァールバル・ポピーが小さな白い花を咲かせていた。その向こうに、北極海が輝いて見えた。
 そこで剣志郎は、震える指をそっと標本から離した。そして、剣志郎もまた思った。自分にも、なにができるだろうと。
 さて、今度は剣志郎が希林さんに手紙を送る番だ。


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クサヨミ (21世紀空想科学小説 3)

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