金継ぎ、88、時の香

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「ブンゲイファイトクラブ3」に参戦しました。
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予選通過作 1回戦グループB「金継ぎ」と、あと小世界2作「88」「時の香」

金継ぎ 藤田雅矢
 天空軌道から、0番線へ入ってくると連絡があった。ホームから見ると、二本のレールが遠近法の先へと消える地平線の辺りがほのかに明るくなって、その灯りがゆっくりと近づいてくるのがわかる。月だ。
 新月が近いので、それほどまぶしくはない。
 双眼鏡で接近を確認し、ブレーキをかける。二本のレールの上を移動してきた月が、大きく軋む音をたてて停止する。振動がホームにも伝わってくる。レールから湯気が上がる。月は重たいのだ。
 こんな円盤が天空を巡っているなんて誰が思うだろう。こうして年に一度、月の点検がはじまる。その間、模様のない偽月が天空を巡ることになるが、新月をはさんだ三日間なので、気づく者はほとんどいない。
 天文基地では、月に限らず天空軌道を運行する天体をここで修復点検して空を守っている。
 まず、点検所の転車台に月を乗せ、北極側からフンボルト海の方向へぐるりと回転させながら、検査機器をあてて確認していく。三六〇度回転した後、月面を傷めないように気をつけて、ジャッキで持ち上げる。月の裏側が見えるが、もちろん地面は無い。
 レールに近い裏側部分には、機械油と錆とが入り混じった澱がたまっている。それをオーバーホールして、正確に天空を巡り満ち欠けするように調整しておくのだ。言ってしまえば、天空を巡る巨大な時計みたいなものだから。
 月の表面にも埃は積もる。こちらは月面を荒らしてはいけないので、それをピンセットでひとつひとつ取り除いていく。月面を踏んでの作業は不可能で、月の上にかかったクレーンに腹ばいになって、表面に触れないように、少しずつクレーンを移動させて作業を進める。
 このとき、わずかながらある月の人工物に気をつけないといけない。著名なアポロ計画の遺物をはじめとして、サーベイヤー、ルナ、数多くの地球から飛来した人工物がある。
 月で一番好きな場所は、やはりアポロ十一号の着陸位置だ。ルーペで覗くと、静かの海にはちゃんと着陸船の下降段が残っている。その脇にあるほこりをピンセットで取り除く。根気の要る仕事だが、作業時間も限られており、作業は夜通し続く。
 日付が変わる頃、突然遠くで爆発音がした。点検所内に警報が鳴り響き、ほどなく照明が消えた。暗闇の中、月はほのかに蛍光を放っていた。クレーンの上でじっとしていると、「掠奪団だ!」という声が聞こえた。
 月の欠片を身につけると、長寿が得られるとか、生命力が活性化するとか、幸運を呼び込むとか、怪しげな噂を信じる人は意外と多い。月の欠片を目当てに、点検時が狙われるのだ。警備も厳重になっているはずなのだが、それでも盗難はあとを絶たない。
 実際に昨年の点検時にも、一部を削り取られたことが判明しており、よく見ると欠けたまま天空を運行していたのがわかる。今回は、そこも修復するはずだったのが、またこんなことになってしまった。
 たとえ空に月が巡らなくても、手元に月の欠片を置いておきたい人なんているのだろうか。いや、そういう人がいて高値で取引されるから狙われるのだ。自分だけのものにしたいからこそ、月を壊してしまう。次の月が作れなくなれば、月の欠片の価値は上がる。きっと、そうだろう。
 もう一度爆発音とともに、乗っていたクレーンが大きく揺れた。そして、そのまま月面を直撃するように倒れていく。
 ぱりんと意外なほど高い音が響き渡って、クレーンの直撃を受けた月は割れた。月が割れるのをはじめて見た。辺りを懐中電灯で照らす掠奪団が、大声で叫びながらやって来て、砕け散った月の欠片を拾い集めるのが見えた。
 自分はクレーンにひっかかったまま、その様子を夢のように見ていた。やがて、警備団が駆けつけると、何発も催涙弾が打ち込まれ、そのあとの記憶はない。
 あとから聞いた話では、静かの海を含む、約三分の一が持ち去られてしまったという。そう、あの好きだったアポロ十一号の着陸船の下降段もいっしょに。
 こうなってしまっては、修復に時間がかかる。いや、月をもう一度空に巡らせることが本当にできるのだろうか。困ったことになった。博物館に保存されている先代の月の部品でも利用しないと無理だろう。
 しばらくの間、空には偽月が巡ることになった。ふだん夜空を気にしなかった人たちも、天文基地の点検所が襲撃されたニュースと、空にかかる模様もなにもない薄っぺらな偽月が巡るのを見て、あらためて世界の仕組みを知ることになったはずだ。それでも、この世界に暮らさないといけない。
 それが嫌で火星に移住するなどと言いだす人もいると聞いた。もはや火星がないことも知らないのだ。仮に移住できたとして、火星の月は小さくて歪な形をしたフォボスだ。一日に二回、かなりのスピードで西から上ってくる月に満足するだろうか。
 結局、盗られた三分の一の部分に、先代の月を足して修復することが決まった。古い月は少し黄ばんで色合いが微妙に異なるので、いまの月との隙間を丁寧に金継ぎをして埋めるらしい。しばらく元の月は巡らない。
 
 あれから数ヶ月。夜空を眺めてみるといい。あの月の金継ぎ、自分も作業したんだ。いいだろう、あの継ぎ目。けっこう大変だった。いまはこうして、月を見ながら団子を食べている。そんなのも、まあ悪くないと思う。

 

88(オチェンタ・イ・オチョ) 藤田 雅矢
 数字が羽ばたいているんだ。その蝶を見たとき、はっきりとそう感じた。
 オチェンタ・イ・オチョ――スペイン語で数字の88。その数字の模様が羽に描かれている蝶、和名ではウラモジタテハと呼ばれる。南米の熱帯雨林や雲霧林に生息し、腐った果物の汁を餌とする。
 もちろん図鑑や標本では知っていたが、初めて生体を見たのはイグアスの滝近くだった。せわしなく飛び交い、地面にとまったかと思うと、すぐに飛び立つ。そうして数字が羽ばたいているとき、世界は計算しているのだと聞いた。「8」しかないのではと思ったが、この世界の切り口からは「8」しか見えないのだという。
 オダさんは、捕虫網で次々とその計算を中断させ、蝶を三角紙へと納めていった。エンカルナシオンに拠点を持つ昆虫のバイヤー兼採集者だ。よく通った昆虫標本店の店主から、「南米の昆虫にくわしい若者を探している人がいる、一年ほど働いてみないか」と紹介されたのが、オダさんだった。現地の昆虫に会えると思うと、うかうかと大学を一年休学することを決めて海を渡っていた。
 日本から米国を経由してサンパウロまで二十四時間、そこからプロペラ機でパラグアイの首都アスンシオンへ。さらに薪を焚いて走る蒸気機関車へと乗り込み、もう一日かけてたどり着いたのが、エンカルナシオンという町だった。季節と昼夜が二日で反転し、疲れているのに汽笛が耳について眠れなかった。
 地球儀をひっくり返して見るといい。エンカルナシオンはパラナ川に面し、対岸はアルゼンチン。けれども、日本人移民が最後に入植した地であることから、地球の裏側なのに店によっては日本語が通じた。それもあってオダさんはここを拠点にし、その手伝いをして蝶の採取や、標本の発送が仕事だった。残りの時間は好きにしてかまわないという。
 ただ町を歩こうにも、手書きの簡単な地図くらいしかなかった。町の中央を貫くハポン通り。町には信号がひとつもないのに、なぜか歩道橋はひとつあって、誰も渡らなかった。
 ハポン通りを下ると、パラナ川に出た。この辺りは露天が店を並べ、いつも陽気な音楽がラジカセから流れていた。大きな魚を裁きながら、おじさんが「ドラド、ドラド」とテンポよく売声をあげる。パラナ川で捕れる黄金の魚だ。そのとなりでは、露天の本屋が歩道一面に本を並べて、羽箒をかけていた。
 裏通りには日本からの輸入食料品店もあった。賞味期限が二年ほど前に切れたカップ麺やチューブのわさびが、けっこうな値段で売られていた。たまに行くバーのメニューにはカツ丼があり、なぜかパンがついてきた。
 公園には平日も休日も変わらずに人がいて、テレレというマテ茶を飲んでいた。先に小さな穴が開いて濾過できるボンビーリャというストローで飲む。そうして一日中、何もしないで過ごす。これがなかなか難しい。無為の時間を過ごそうと努めた。いや、ここでは努めてはダメなのだ。
 そして大事な仕事の一つに、週に一度日本へかける夜の電話があった。いまならメール一本ですむ話が、当時の連絡手段は電話か手紙。時差が十二時間あるので、夜九時に電話をかければ日本は朝九時。なんとか連絡がつく。しかし電話のある家はまれで、みんな電話局へ来て電話をかけていた。電話局は二十四時間営業で、夜中に来ても長蛇の列で待ち時間のおしゃべりを楽しんでいた。
 順番がくると、局内の狭い電話ボックスへと入る。受話器を取って待っているとオペレーターが出る。忘れないようにメモしてきた「キエロ・ヤマーラ・ハポン(日本に電話したい)」と言って、通じたようなら電話番号もなんとかスペイン語で伝える。呼出音の向こうに日本語が聞こえると、ほっとする。回線の影響か、声が届くのに二秒ほど遅れがある。そこで、注文のやりとりをする。値引きはしない。
 注文を受けると、オチェンタ・イ・オチョやブルーモルフォを丁寧に梱包し、今度は郵便局へ持ち込む。また発送手続きが面倒なのだが、対応してくれる局員とテレレを回し飲みしつつ半日かけて手続きを終え、パラナ川に沈む夕陽を眺めに行くこともある。少しは無為に過ごすことができるようになった。
 一年が経とうとする頃、オダさんからは仕事を任され、もっと居てもいいと誘われたが、休学を延長する決心がつかないまま、日本へ帰ってきてしまった。エンカルナシオンを発つ日、オダさんは「またおいでよ」と、記念に一羽のオチェンタ・イ・オチョをくれた。三角紙の中で、蝶の計算は止まっていた。


 あれから三十年、結局もう一度パラグアイの地を踏むことはなかった。ふとエンカルナシオンのことを思い出して、インターネットで検索をかけてみた。すると、そこには手書きの地図ではなく、現実の風景を真上から見下ろすことができた。黄金の魚ドラドが泳いでいたパラナ川下流にはダムができ、露店が並んでいたパラナ川沿いは、すっかりダム湖に沈んでしまっていた。
 蒸気機関車の線路が走っていた場所も水没したようだが、あの機関車が着いた駅はぎりぎり沈まずにあって、鉄道博物館になっていることも知った。ホームだった場所に、機関車が置かれている画像を見つけた。
 かつて、自分はこの場所に降り立ったのだ。汽笛が記憶の中で聞こえている。ただ、車輛の保存状態は悪く、機関車は赤く錆びて朽ちかけていた。これが、世界の計算結果だった。


時の香 藤田 雅矢
 その花の咲き始めは清らかに白く、八重のツバキのようにも見える。けれども、その花弁はヒナゲシに似て紙のように薄く、印刷されたばかりの本の香りがする。やがて、時とともに花びらは次第に色褪せ、黄ばんでくる。縁はより茶色みがかって、花の香りは一段と強くなる。ただ、その香りは咲いたばかりのときと違い、古本の香りがする。この花が「古書花」と呼ばれる所以だ。
 ベンズアルデビドやバニリン、エチルベンゼンなど、有機化合物の仕業である。古書や図書館の香りが好きな人はいて、「イン・ザ・ライブラリー」という名の香水すらある。古い歴史を持つ図書館、静かな空間に本のページをめくる音だけが響き、古書から漂う香りを表現したというのが謳い文句だ。
 それは、時間が醸しだす時の香でもある。
 もちろん、その香りだけでなく、古書に心惹かれる人は多い。本に書かれている物語に人を惹きつける力があることは、言うまでもない。しかし、本を物として感じたときには、その本の装丁、見返しの飾り紙、紙をめくるときの手触り、そして紙の音。そういうものが統合されたものとして、本を感じている。
 さらに本が集って集合体となることで、本への想いはさらに深いものとなる。それが古書店や図書館の魅力だ。古本が立ち並ぶ書架、狭い通路に並ぶ本棚、床から積み上げられた古本の塔、そこに本がある安心感が生まれる。ひいては積読の免罪符、十数年経ってから買っておいてよかったと手にする喜びへとつながる。
 古書花の香りを嗅ぐと、そんなことが次々と想起される。それゆえ、古書店にとって古書花はとても貴重なものであり、花が持つ特別な力を求めて、密かに入手し店の奥で鉢植えを栽培しているところもあると聞く。
 たとえば、古書花を押し花にして本のページに挟んでおくと、新しい本も容易に古書へと変えることができる。装丁をわざと古本風にした新刊もあるようだけれど、この花があればそんな必要もない。
 しかし、きれいにできた古書花の押し花を、あまり長く本に挟んだままにしておくことには注意を要する。
 というのも、香りだけでなく、本の内容にすら影響を及ぼしかねないからだ。何年も古書花が挟まれた本の物語は、ときに微妙に変化していることがあり、それは異本として珍重される。
 本の初めの方に挟んでおけば冒頭が少し変わったような気がするし、終わりに挟めば結末すら微妙に異なる。
 では、しおりとして使った場合はどうだろう。読みはじめるたび、何か少し違う奇妙な感覚を体験できるのではと思うが、そんな短期間で物語の変化はないようだ。
 古書花の栽培には、なるべく日陰がよいとされる。葉や花が日焼けを起こしやすいためだ。しかし、あまりじめじめしたところでは、黴などに侵されやすく、乾いた日陰で雨よけ栽培するなど、栽培管理が難しい。もともとの原木は、古代アレクサンドリア図書館に植えられていたというが、乾燥した気候に適していたのだろう。
 古書花には、書物の灰を施すのがよいとされる。特に焚書灰は、最高級の肥料となる。また紙魚が好んでつくため、花を穴だらけにされないよう、まめな手入れが必要である。
 そうして、丁寧に栽培された古書花になると、物語に影響を及ぼすどころか、まったくの白紙の本に挟んで時を経ることで、いつしか物語が書き記されている。
 それゆえ、秘密の温室で古書花を育てている作家もいるらしい。それも、古風なキューガーデンのような温室が適している。また、穫れた物語は高値で取引されると、まことしやかに噂されている。
 そうした古書花への欲望が大きくなっていくと、香りを嗅いだり、本に挟んでおくだけではとても物足りなくなる。やがて行為はエスカレートして、ついには古書花を口にしてしまう事態に至ることが稀にある。
 そうなると、即身仏になるために、五穀断ち十穀断ちと穀物を食べない木喰行のように、やがて古本と古書花しか口にできなくなってしまう。
 ひとり部屋に籠り、古書を読んでそれを口にする。物語は自分の身となり、すらすらと朗読できるようになる。それと同時に、自分の身体からも古書の香りが漂いはじめ、気がつけば古書店の本棚に挿された一冊の古本と化してしまう。
 それは夢なのか、誰か手に取ってページを開き、この本を読んでくれやしないかと願いつつ、時の過ぎるのを待つ。時とともに、よりよい古本となっていく。時の香がかぐわしい。
 そんな異形の古書を置く古本屋には、さらに特別な本棚があるという。なんと古書花の木を寄せ木に組み込んだ本棚なのだ。それは店主の居る側を通らないと行けない店の奥にあって、もちろん許可無く近寄ることはできない。
 この本棚は、即席ではなく本当の古本をつくる本棚だ。その棚に本を挿したとたん、およそ十年の時を超えて過去へと飛ばされる。そう、十年前からその本棚にあったことになる。もう一度手に取れば、古本として十年熟成した同じ本を買って帰ることができる。
 もし、本が消えてしまったなら、それはいままでの間に売れてしまったことになる。
 ただし、絶対やってはいけないことがある。それは十年以内の新刊を棚に挿す行為だ。それをすれば、未来の本が読めることになってしまい、歴史が変わるからだ。
 それで世界は一度滅んだ。

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